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伝えていきたい戦争の記憶
平塚空襲から73年が経ち体験の継承が課題に

2018年7月21日UP | headline, Top

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太平洋戦争末期、多くの地方都市が米軍機による空襲を受けた。平塚もその一つで、一晩で市中心部が焼け野原となり300人以上が亡くなったといわれる。それから70年以上、その様子を覚えている人が少なくなる中で自らの経験を記録として残しておきたいと考える人がいる。

 平塚空襲は、昭和20年7月16日深夜から17日未明にかけて行われた。米軍のB29爆撃機132機が飛来し、市街地を焼き払うため焼夷弾約40万本を投下。これにより旧平塚市と近隣の町や村を含め8,000戸以上が全焼または半焼し、市内中心部は焼け野原となった。また亡くなった人の数は328人以上という。
 当時について今もよく覚えているのが、平塚市松風町に住む大村みつ子さん(89)。当時16歳で、新宿(現錦町)に漬物と佃煮の店を営む両親と暮らしていた。
 旧制県立平塚高等女学校に通ったものの、授業を受けたのは2年生まで。その後は勤労動員のため日本国際航空工業で働き、器具の研磨などを任されていた。食料も不足し「その日その日を生きるのが精一杯で、自分のやりたいことがあっても考えられなかった」と振り返る。

焼夷弾が降る中を逃げた
 平塚空襲の前には20年3月に東京大空襲、その後も川崎、横浜と続いたことから、夜もモンペの上下を着たまま、枕元には常に防空ずきんを置いていつでも逃げられるようにして布団に入っていた。
 そして7月16日の夜、寝ていたところ自宅の周囲に照明弾が落ちてきて、いきなり昼間のように明るくなった。父親に「母さんを連れて逃げろ」と言われ外に出ると大勢の人が海岸へ向かっており、大村さんたちも同じように避難した。途中松林を通った時、棒状の焼夷弾がシュシュシュシュと不気味な音を上げながら一定の間隔で自分の歩いている周りの砂に突き刺さり「何しろ怖くて、走って逃げた。夢中だった」と言う。後になって、親しくしていた人が焼夷弾の直撃を受け亡くなったと聞いた。自分と母親は「よく助かったと思います。運が良かった」と回想する。
 何とか海岸に掘られていた防空壕に2人で逃げ込み、空襲が収まるのを待った。父親は家を守ろうと残っていたが、裏にあった松竹劇場が燃え始めて火が移り全焼、命こそ助かったが家と店を失った。「どうすることもできずにその様子を見ていたのは辛かった」と話していたという。
 あの時のことは忘れたいし、その後家族とも一度も話したことはない。だが今でもこうして覚えている。「(当時のことを)分かっている人がいなくなったので、残した方がいいかもしれない」との思いから今回話を聞かせてくれた。

記憶の風化を危惧
 こうした体験者の証言を直接聞き取り『市民が探る平塚空襲』『炎の証言』などの冊子にまとめているのが「平塚の空襲と戦災を記録する会」(江藤 巖会長)である。約30年の活動で人づてに体験者を探し出し、約270人の証言を集めてきた。江藤さんによれば、ここ2、3年、体験を記録し残しておきたいとの思いから最近90代の人が「証言したい」と自ら連絡してくるケースも数件あったという。江藤さんは「空襲の記憶が風化することへの危惧があるからではないか」と話す。
 会では小中学生に体験を伝える活動も行うが、その親世代でも平塚空襲の事実さえ知らない人が多いという。遺された記憶を後世に伝えるためにも、空襲当時に自分と同じくらいの年齢だった人の体験談を読むなどして、親世代も若い世代と共に学ぶことを大切にしたい。

関連事業
●平塚空襲展
開催中9~17時/平塚市博物館
●平塚の空襲と戦災を記録する会編の『市民が探る平塚空襲』『炎の証言』は市内図書館で借りられる。◇問い合わせ=平塚市博物館☎︎33−5111
●親と子で考える平和学習会
7月24日(火)二宮町ラディアン
7月26日(木)平塚市中央公民館いずれも9時50分~11時20分
戦争体験者による語りと映画上映。参加無料。◇問い合わせ=中地区教育文化研究所☎︎31−7717
●市民平和の夕べ
8月12日(日)18時30分~20時 平塚市総合公園
灯ろう流しや平和映画の上映など
◇問い合わせ=市行政総務課☎︎21−9754

【写真】昭和20年9月に現在の見附町付近で撮影された写真(米国立公文書館蔵 平塚市博物館提供)
【写真下】空襲の後身を寄せた家では本当によくしてもらったと言う大村さん/大勢の命を奪った焼夷弾(平塚市博物館蔵)/毎年発行の『炎の証言』 8月には最新の19号が出る予定