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源平とその周辺 第2部:第80回(最終回)頼朝、征夷大将軍になる

2016年8月19日UP | コラム, 源平とその周辺

0819 源平 頼朝が上洛した翌年から体調を崩していた後白河法皇が、建久3(1192)年に崩御した。政治的な面では、平家や源氏を翻弄した感のある法皇であったが、当時流行していた歌謡である今様を載せた『梁塵秘抄』を制作するなど、文化的な面でも大きな役割を果たしている。後白河法皇の離宮・法住寺殿の内にある、平清盛の助力を得て建てられた三十三間堂(蓮華王院)には、今も人々が訪れる。この法住寺殿の地に、後白河法皇陵はある。
 この年の7月。後白河法皇の死後になって、頼朝は征夷大将軍に任じられたのだった。征夷大将軍といえば、東北平定を命じられた坂上田村麻呂が想起される。平塚市「田村」の地名は、東北に向かう途中にこの地に「サイカチ」の木を見つけて戦勝祈願し、その恩恵によって成就したという田村麻呂の伝説に由来すると伝えられる。
 さて、征夷大将軍の除書(任官の辞令)を持った勅使が鎌倉に到着した。ここで、除書を受け取るという重要な任務を果たしたのが、三浦義澄である。授かった除書を、義澄は頼朝に捧げた。誇らしかったであろう。ここで義澄が抜擢されたのは、頼朝が挙兵するにあたって、三浦氏が大いなる貢献をしたからである。伊豆で頼朝が旗揚げしたという知らせは、義澄の父・義明を非常に喜ばせた。早速一族で参戦することになった。しかし払った犠牲は大きかった。義明の弟である岡崎義実の子、真田(佐奈田)与一義忠は、石橋山の合戦で先陣をつとめて死闘の末、若くして命を失った。また、当初平家方であった河越氏や畠山氏によって攻めこまれた義明自身も、衣笠城で討ち死にをしている。その三浦一族に対する恩に、頼朝がこのような晴れの場を持って報いたいと思ったのも、肯けよう。
 征夷大将軍拝命の翌月には、のちに3代将軍となる実朝も誕生し、この頃の頼朝は充実した日々を過ごしたと考えられる。
 伊豆の蛭ケ小島で、伊東氏と北条氏に監視されながら日々を送っていた一介の流人であった頼朝が、ついに征夷大将軍にまで到達した。鎌倉の地で、新たに源氏政権が幕を開けたのであった。
※本連載は今回をもって終了となります。長らくご愛読いただきまして誠にありがとうございました。

【写真】源頼朝と伝わる人物像(神護寺所蔵)。だが近年では、足利直義像とする説が有力

著者:新村 衣里子
元平塚市市民アナウンサー。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学講師。