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源平とその周辺 第二部:第79回 久しぶりの都

2016年6月17日UP | コラム, 源平とその周辺

0617 源平 建久元(1190)年10月。頼朝は上洛するため、畠山重忠を先陣として鎌倉を出発した。千葉常胤やその子息らが後陣をつとめる。初日は相模国の懐嶋(ふところじま・茅ヶ崎市)に宿泊し、大庭景義が食事の用意をした。
 頼朝が平治の乱で平家方に捕らえられて伊豆に流されたのが、1160年。それ以来、上洛しようとしたこともあった。例えば富士川の合戦で平家が敗走した時。勢いに乗じて都へ上ろうとしたが、「まずは関東の地を固めることが先決です」という千葉氏、上総氏、三浦氏の主張を受け入れてとどまった。弟の義経や叔父の行家を追討するために出陣して駿河国に至ったこともあったがそれ以上進むことはなく、東国の基盤整備に注力した。それゆえ奥州合戦も収束したこの時期に上洛することとなったのだ。『保暦間記』は途中の美濃国青墓の宿にて、父義朝を裏切って殺害した長田忠致を、父への孝養のために斬ったと伝えている。
 11月、入京。黒い名馬に乗って一千余騎の兵を従える頼朝の姿は、威厳に満ちていた。大勢の人々が集まり、後白河法皇もその様子を密かに見物した。頼朝は、かつて平家が本拠とした六波羅の地に前もって建てておいた新しい邸に入る。在京中には、後白河法皇や後鳥羽天皇に拝謁し、豪華な贈り物もした。頼朝は権大納言と右近衛大将に任命されたが、両方とも辞任する。この「前右大将」という権威をもとにして、鎌倉に戻ってからの頼朝は前右大将家政所を開設することになる。
 また頼朝は、今まで協調関係にあった摂政の九条兼実(くじょうかねざね)とも会った。その際に頼朝は「今は後白河法皇が天下の政を行っているが、法皇の死後は天皇に実権が戻って政治は正しい方向へ進むでしょう」、「表面上は(兼実に対して)他人行儀に振る舞っておりますが、信頼を寄せています」と語ったという。この年、兼実の娘の任子は後鳥羽天皇の中宮となっている。後に、頼朝が娘の大姫を後鳥羽天皇のもとに入内させようと動き出すことなど、この時の兼実には知る由もない。

【写真】
栗原信充(江戸後期)による『肖像集(2)』(国立国会図書館所蔵)の中で描かれた九条兼実

著者:新村 衣里子
元平塚市市民アナウンサー。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学講師。