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源平とその周辺 第2部:第78回 祐経と曽我兄弟

2016年6月3日UP | コラム, 源平とその周辺

 前回に引き続き、『曽我物語』にみえる工藤祐経の話である。ある時、祐経の父である伊東助継が狩場からの帰りに重い病にかかった。日を経るにしたがい、容態は悪くなるばかり。子どもの金石(のちの祐経)がまだ9歳だったため、助継は不憫でならなかった。そこで後のことを河津祐親(曽我兄弟の祖父)に頼んだ。決して祐経のことを疎かにはしない、と固く約束する祐親。その心強い言葉を聞いて、助継は喜んだ。そうして助継は亡くなった。祐親はどうしたか――。約束を違えて自身が伊東に移り住み、伊東祐親と名のったのである。河津の地は息子の三郎助通(祐泰とも。曽我兄弟の父)に任せることにした。伊東の地を継ぐはずであった祐経はというと、京都の平重盛のもとに伺候している。祐経が伊豆に帰ってきた時には、祐親はすぐに都へ戻るようにとけしかけて、屋敷の一つも与えない。事情がよく分かっていなかった祐経も、自分が継ぐべき地を横領されたことを知って訴訟を起こすのだが、なかなか認められない。どうにか「半々ずつ知行するように」との承認を得ることができて伊豆へ向かおうとしても、祐親が領地へ足を踏み入れさせない。それどころか祐親は、祐経にめあわせていた自分の娘を強引に取り返して、土肥遠平と結婚させてしまう。恨みが募った祐経は伊豆の奥野という地で催されていた狩から祐親父子が帰るところを家来に狙わせた。その際に射殺されてしまったのが河津三郎助通である。これが、のちの曽我兄弟の敵討(建久4〔1193〕年)の火種となる。母は曽我祐信と再婚することになり、曽我に住む。ちなみに異父姉は二宮朝忠に嫁いでいるため、二宮の姉と呼ばれている。
 『吾妻鏡』建久元(1190)年9月7日条によれば、激しく雨の降る日だったという。曽我十郎祐成が、箱根山で修行していたはずの弟の箱王を連れて、北条時政のところへと参上した。箱王は時政を烏帽子親として元服し、曽我五郎時致と名のる。五郎が元服したというのは、敵を討つという覚悟の表れでもあった。しかし頼朝に反旗を翻した祐親の孫である曽我兄弟の立場では、頼朝の寵臣である工藤祐経になかなか近づくこともできない。本懐を遂げるには、まだあと数年かかるのであった。

【写真下】五朗(左)が時政(中央)の元で元服する場面を描いた、国貞改二代豊国による錦絵『曽我ものがたり』(国立国会図書館蔵)。右は十郎



著者:新村 衣里子
元平塚市市民アナウンサー。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学講師。