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源平とその周辺 第2部:第76回 弓馬の芸

2016年4月29日UP | コラム, 源平とその周辺

0429 源平
 奥州で反乱を起こした大河兼任はどうなったのか。率いていた軍勢を失ってただ独り窮地に陥っていた彼は、栗原寺にいた。錦の脛(すね)あてや立派な太刀を身につけていた彼は地元の樵達に怪しまれ、取り囲まれた。樵達は斧で襲いかかった――。兼任が討たれたという知らせが千葉胤正に届けられる。鎌倉方を混乱に陥れた大河兼任の叛乱が、ようやく終わりを告げたのであった。
 建久元(1190)年4月。頼朝が頼家の弓の師として下河辺行平を召した。頼朝は、のちに将軍を継ぐことになるこの嫡男に期待していた。妻の北条政子がこの子を懐妊した時には、安産を祈願して鎌倉に段葛を造ったほどである。頼朝は成長した頼家に弓馬の芸を身につけさせるために、弓矢の達人である下河辺行平に指導を頼んだのだ。そうして大勢の御家人の前で、頼家がはじめて小笠懸を射ることになった日。弓を射て下馬する頼家の姿を目の当たりにした人々は、その素晴らしさに感激したという。御家人達には酒がふるまわれ、指導者の行平には剣が与えられた。頼朝は嬉しかったことであろう。
 弓馬の芸を重視する頼朝の姿勢は、この年の8月に行われた放生会の際の逸話にもよく表わされている。神事として行われる流鏑馬(馬で駆けながら的に向かって矢を射る競技)の人数が急遽足りなくなってしまった時の話。大庭景義が頼朝に伺いを立てる。「石橋山の合戦で弟の景親(平家方)についた河村義秀が、私のもとに捕虜としております。弓馬の芸に秀でた彼を召してみてはいかがでしょうか」。頼朝は不審に思った。なぜそのような者がまだ生きているのか。しかし今はとにかく流鏑馬を滞りなく行うことが重要だ。もし至らぬ芸であれば、再度罰を与えればよい――。そうして義秀が呼ばれた。流鏑馬を披露する。義秀の弓の大きさに傲慢さを感じ取った頼朝は、失敗するかどうか試すために他にもいくつか射させた。しかし、どれも成功。見事な技に感じ入った頼朝は義秀を赦した。そして後日、相模国足柄郡河村郷に戻るのも認めた。弓馬の道に秀でていたことが、義秀の身を助けたということになる。

【写真】鶴岡八幡宮へ続く参道、若宮大路の「段葛」

著者:新村 衣里子

元平塚市市民アナウンサー。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学講師。