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源平とその周辺 第2部:第74回 目的達成のために

2016年3月11日UP | コラム, 源平とその周辺

0311 源平
 大河兼任による反乱は、まだ収まっていない。頼朝は奥州へと使者を遣わせて、次のように命じた。「自分の領域の内を敵が通過するというときには、功績を挙げようと思うかもしれない。だが少人数の兵だけでむやみに合戦するような無益なことはしてはならない。関東から派遣された兵達や在国している御家人らが、心を一つにすることが大切である。皆でよく話し合い、一体となって戦いに臨むように」と。頼朝は考える。討ち死にをした由利維平のとった行動は、確かに褒められるべきことのようにも思える。しかし、大軍の強敵に立ち向かっていくためには、充分な熟慮が必要である。むしろ橘公成のように、一旦逃れて生き延びてから攻略のための方策に考えを巡らせることこそ、敵を倒すという目的を遂行するためには適ったやり方なのではないか――。策略を練った上で協力し合って戦に臨むことが、反逆を鎮めるのに効果的なのではないだろうか。
 なかなか決着がつかない奥州の状況が、頼朝は気になっている。それゆえどのような情勢なのかを把握するために、頼朝は雑色(ぞうしき、ざっしき。雑役をする下男)らを遣わせてやり取りを行う。奥州にいる千葉胤正をはじめとした御家人らに向けて、以下のことを伝えさせた。今回の叛乱が、派遣した兵達だけでは収束できないようであれば自分が出陣することになるであろう、ということ。さらに、謀叛の者達は死罪であるが、降伏してきた者に関しては頼朝が処遇を判断すると周知せよ、ということ。降伏すれば頼朝の裁量で刑をゆるめる、という可能性を前もって示しておけば、一旦は兼任の圧倒的な勢力に怖れをなして兼任方についた者達も頼朝軍に靡(なび)いてくることになろう。「追討」ということが強調されれば人々は当然反発して立ち向かってくる。それは我が軍にとっては不利であり、損失となる――。だから懐柔することもまた必要だ、と頼朝は考えたのであった。
 建久元(1190)年2月。鎌倉方の軍勢が兼任の軍を襲撃。陸奥国栗原(現宮城県栗原市および大崎市の一部)にて戦闘が行われた。兼任の軍勢は散り散りとなり、逃亡する者達は討ち取られた。兼任は、今日の青森県の辺りまで引いて防戦するも劣勢となる。そして行方が分からなくなった。

【写真】兼任の対鎌倉軍、最後の防戦地とされる古戦場「有多宇末井之梯(うとうまいのかけはし)」(青森県青森市)。善知鳥(うとう)トンネル脇には史蹟を解説する案内板が建てられている
写真=青森市民図書館歴史資料室 工藤大輔さん撮影