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源平とその周辺 第2部:第71回 運慶、像を造る

2016年1月22日UP | コラム, 源平とその周辺

0122 源平
 奥州藤原氏を滅ぼして帰還した頼朝が、永福寺の造営を決定した時点(1189年12月9日)に話を戻そう。今回の奥州合戦にあたって北条時政(政子の父)は、戦勝を祈願して伊豆に願成就院(がんじょうじゅいん・伊豆の国市)を建てていた。この願成就院の北に頼朝の館を築くため土地を造成したところ、古い額が地中から発見された。その額には不思議なことに、「願成就院」との文字があったという。掘り出された額は寺に掲げられた。「願が成就する」という意の寺の名を有する額が奇しくも掘り起こされたことは、まさしく武家の繁栄を表わす吉兆である、と考えられた。この寺には、運慶によって制作された阿弥陀如来像、不動明王及二童子像や毘沙門天像などが伝わっている。
 また同様に、奥州平定の祈願のために和田義盛が建立した浄楽寺(横須賀市)にも、義盛による依頼を受けて運慶が作った阿弥陀三尊像、不動明王像や毘沙門天像が伝えられる。運慶は、東大寺南大門の金剛力士(仁王)像や興福寺の無著(むちゃく)・世親(せしん)像の制作で名が知られる人物である。彼をはじめとする仏師達は、平家による焼き討ちによって多くを焼失した東大寺や興福寺に置く像を制作することでその復興にも尽力した。彼らの作風は写実性に富み、人間味豊かであるとして高い評価を得ており、その多大なる功績は後世にも大きな影響を与えた。ちなみに夏目漱石の『夢十夜』の第六夜には、運慶が木から仁王を彫り出す様子が描写されており(もちろん、夢の中の話という設定ではあるが)、大変興味深い。
 さて、北条時政や和田義盛による戦勝祈願も成就し、奥州合戦は無事に勝利のうちに幕を下ろした。しかし、ここに至って不穏な動きがあるという。鎌倉の頼朝のもとに届いた情報に拠ると、「源義経ならびに木曽義仲の息子、及び藤原秀衡の息子という者が同心して鎌倉を攻めようとしているという噂が、奥州ではしきりになされている」とのことであった。不可解な話ではあるが、再び軍を奥州へ進めなければならぬ。頼朝は、越後や信濃の御家人達に戦いの準備をするよう命じる。そうして防戦の用意のため、工藤行光や由利維平らが進発。文治5(1189)年も、暮れようとしていた。

【写真】=江戸時代に刊行された『集古十種 古画肖像之部 下』(国立国会図書館蔵)に描かれている「佛師雲慶木像」。六波羅蜜寺地蔵堂に安置されている木像を描いたもの

著者:新村 衣里子

元平塚市市民アナウンサー。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学講師。