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源平とその周辺 第2部:第21回平忠房の乱

2014年5月16日UP | コラム, 源平とその周辺

0516 源平 1185年12月。平忠房(重盛の子)の身柄が後藤基清に預けられたという記事が『吾妻鏡』に載せられている。忠房は、それまで何をしていたか。屋島の戦の後に一門とは行動を別にして、紀伊国(和歌山県)の湯浅氏(宗重と子の宗光)のもとに身を寄せていたのだ。そうして湯浅氏の本拠である岩村(岩室)城に籠った。これを聞きつけて、壇ノ浦の戦い以降、姿を消していた越中次郎兵衛盛嗣(盛俊の子)、上総五郎兵衛忠光(伊藤忠清の子)、悪七兵衛景清(忠光の弟)以下、続々と兵が馳せ集まってきた。平家再興のために数百騎が立て籠る。これを受けて、熊野別当の湛増率いる軍勢が攻め寄せる。城内の兵達の奮戦に、熊野の兵達は近寄ることさえできずに追い払われ、多くの犠牲者を出した。岩村城はしぶとく、攻め落とすのは至難の業であった。苦戦する熊野別当に頼朝は指示を出す。「立て籠っている輩は山賊や海賊の類であろうから、それらを厳しく取り締まって城の入口を固めよ」。湛増は頼朝の指図通りにじわじわと相手を追い詰めていった。さらに、頼朝は「重盛殿の子であれば命を助けよう」との情報を流す。この偽りの誘いを受けた忠房は、京都の六波羅に名のり出る。関東へ下って頼朝と対面した忠房。再び都へ上るようにとの仰せがあったので都へ向かったが、その途中の勢田(瀬田)の橋の辺りで斬られたと伝えられている。
 忠房を庇護していた湯浅宗重は、平治の乱の時に清盛に尽力した人物。清盛が熊野に参詣するために僅かな人数を引き連れて出かけていた時に、信頼と義朝(頼朝の父)が都で挙兵した。慌てた清盛に、武士達を提供して勇気づけたのが湯浅宗重だ。湯浅の支援を得て清盛が急遽都へ戻ったこともあって、この平治の乱は最終的に清盛が勝利を収めた。平家重臣の湯浅氏は、それゆえ忠房を庇護して籠城戦を行ったわけだが、もともと頼朝と縁の深い文覚上人の檀家でもあったことから、不問に付された。所領もそのまま子孫に相続され、湯浅党の基盤が築かれることとなったのである。忠房と共に戦った盛嗣、忠光、景清らは、再び潜伏して頼朝を倒す機会を窺うのであった。

写真:
岩村(岩室)城が築かれていた岩室山(和歌山県有田市)山頂。眺望が良く、山の中腹には同市の名産であるみかんの畑が広がっている。ポーズを決めているのは、有田みかんマスコットキャラクターの「あり太くん」写真提供=有田市

著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。